3月    館長から             雨貝 行麿


 3月には「忘れられない」ことがあります。聞いて下さい。わたしは昭和19年4月に
国民学校1年生になりました(戦争中、第2次世界大戦です)「小学校」を「国民学校」と
名前を変えていました。東京の白金
(しろがね)ランドセルだけではなくたすき掛けに小さな
救急袋と防空頭巾を提げていました。子供をそんなにまでして戦争を続けていたのです。鉄
筋コンクリートの校舎は白黒にまだらに塗り分けられ、航空機からのカモフラージュのため
といっていました。高層建築の小学校は東京といえども、ほとんどありませんでした。1組
は全部男子です。当時は別学でした。そのなかに帰り道を同じくする子、小学校でできた友
達がいたんです。越前谷君といいました。入学してまもなく、ですから友達になってからす
ぐ、そのお友達のうちに立ち寄りました。きれいなお母さんでした。そのお母さんから、か
りんとをつくるからしばらく一緒に遊んでねと頼まれたのです。かりんとが出来上がりまし
たから早速2人はお皿にわけて食べ始めました。おいしいかりんとです。わたしはいたずら
に越前谷君のかりんとをいきなりつかんでほおばりました。彼はいくじなしで、「お母さん、
雨貝君がかりんととった!」すぐ泣き始めてお母さんの所に飛んでいって訴えました。わた
しは「意気地なし」と、かりんとを取ったことを棚にあげました。記憶はここで途絶えてい
ます。友達を泣かせたことなどわたしの母には言いません。

 まもなく、母が、しんみりと、越前谷君は引っ越していってからまもなく空襲で亡くなっ
た、と告げました。それは少し暖かくなった3月のことでした。ふさぎこんでいたからでし
ょうか、ある日、担任の女の先生が帰り道をわたしの家まで手をつないで、送ってくれまし
た。そして2年生になりますともう毎日が大変でした。学校にいっても空襲ですぐ帰る毎日
でした。友のことは忘れてしまったのでしょうか。しかし、いつしか幼かったけれど友は友、
友を喪った(3月10日東京大空襲)、その日のことが忘れられないのです。

 今、戦争体験がない世代が多くなり始めています。日本が戦争を始めたことがあったこと
を忘れかけたり、父や、夫や、子を戦場に送りだしたことを忘れ去らせようとする勢力があ
ることも心しなければなりません。戦争の中で、不安な日夜をすごしたことも忘れかけ、都
市が1昼夜燃え続け、真っ黒になった空の下でなすすべもなく呆然とした日々のことが忘れ
られ、黒こげに遺体を脇にしながら平気になっていた心の空洞を気づかずに過ごした日々が
忘れ去られようとしています。

 戦争の惨禍を伝え、語り継ごうとして、繁栄して林立するビル群から離れた東京の下町に、
ひっそりと「東京大空襲記念館」が運営されています。この運営のあり方を見ていますと
「正しいことを語るときには、静かに語りなさい」そんな警句が思い出されます。人の心は
なぜか、かたくなです。たといどんなに「真理」でも、その心に届くようにするためには理
をつくして静かに語りかけることでしょう。


 3月、クリスチャンセンターには、冬に札幌を楽しむ一人旅行や、受験生といった青年た
ちが姿を見せます。新たな年度にむけての、なによりも心を向けようとする、だから不安げ
で、しかし心を新たにしようとしている青年たちの前途を祝福したい。