5月           館長から  雨貝 行麿


「うるわしの五月」といいますが、札幌ではもうすこし暖かさが必要です。

五月は「憲法記念日」がありますね。かって「ワイマール憲法」を「民主」憲法として知られていますが
これは「民主的」にナチス政権になりました。わたしどもの憲法は「平和憲法」として知られています。
明治以来日本は戦争をし続けてその戦争で得たものは失いました。戦争をしつづけると関わる人々が道徳
的でなくなります。そこへ「民主主義」がもたらされました。これは「平和」と「国民」主権を明記した法
文として歴史的には革命に値することです。「平和」を守るといいますが、いかがですか、「平和を守る」
といって「平和」から後退していないでしょうか。一歩前へ、平和は「築く」ことではないでしょうか。
さて民主主義として「国民の、国民による、国民のための政治」という言葉を学びました。民主主義の
原則だというのです。リンカンの言葉だということでした。調べてみますとこんなことがわかってきまし
た。アメリカの「南北戦争」の後に語られたとのことです。南北戦争を英語ではAmerican Civil Warと
いい、市民同士が、若い市民たち同士が殺戮を繰り返し、そのもっとも激戦地であったゲテスバークでリ
ンカンは神の前で再び青年たちを殺戮の現場に送るようなことをしないこと、そして戦争のために引き裂
かれた国家を再建するために不可欠なことを語りました。その締めくくりの成句が「the govern-ment 
of the people、by the people、for the people.」ということでした。そこで、これをわたしは
かって学生たちに問いました。1.of the people.2.by the people.3.for the peopleの3
つのうち、ひとつを採るとしたらどれですか。あなたならどれですか?8割が3.Forをとりました。自分
が享受する側の立場ならそれでよいでしょう。また実行する主体となるならば大層健全なこころをもつ為
政者になることでしょう。しかし政治はもっと、想像以上に過酷な選択をする場面にぶつかるでしょうね。
すると「For ひとびとのために」が貫けるでしょうか。わたしは自己の責任と権威において政治の主体
となるためには「of」つまり自分が掌握する立場であるとの認識が不可欠ではないかと考えています。
「of もつ」ことをしなければ「by」行使の主体にはなれないのではないでしょうか。したがってその判
断と責任において「forために」ということが行使できるのではないか、そう考えていると話しました。
とかくわたしどもは日常は善意です。すると「人々のためにfor」が大切ということでしょうね。それ
はもっともです。ただ「ofもって」いなければ他人の善意に頼んで「お願い」しなければならないのです
ね。しかし、そのような善意に期待して、自分は手をこまねいている、ということになります。それはど
んな態度になるのでしょうか。他人まかせです。
 わたしは今も「民主主義」というのは「わたし」ということが基本だと考えています。その「わたし」
が何を主張し、何を求め、何を実現しようとしているか、その「何を」は適切で正当であるかを、だれか
らも左右されるのではなく、ただ神の前で自己吟味するということが大切ではないかと思います。