8月         館長からのたより          雨貝 行麿
 

 平山郁夫(1930〜)という日本画の今では巨匠というかたがおられます。
とても印象的な画風です。なかでも『仏教伝来』は白眉です。これは中国唐の時代、
僧玄奘三蔵の17年に及ぶ求学の旅を描いたものです。「砂漠をえんえんと歩いてき
た旅の僧が・・まさに力尽きようとする寸前、オアシスに辿り着いたのです。」
「新しい仏教を伝えるため、国禁を犯し・・理想は高く、使命感にみなぎってはい
ても砂漠の旅は苦しく、絶望を感じた時もあった、・・」(平山郁夫『群青の海へ』
100頁)。いまオアシスに辿り着いた二人の僧は白い馬と黒い馬にまたがっています。
その一人は一歩前に出て手を前に上げさせ、希望と使命感を表わすように描きました。
氏はこのころ「肉体的に非常に弱っていました。いよいよ原爆症らしい兆候が現われ、
にわかに悪化していったのです。」(同89頁)。しかも青年時代、美術展出品の落選が
重ねられていました。落選に次ぐ落選といえば一言ですが一作ごとに「絶望」でした。
加えて「めまい、動悸、吐き気」、平山氏29歳の時、それを超えた力は何だったので
しょう。

ご自身、このスケッチのために山歩きの旅に出ました。「青葉の生い繁る五月のこ
とでした。山々は新緑におおわれています。しっとりと露を含んだ大気まで、緑にみ
なぎり、輝きわたっていました。今にも消え入りそうな私の命とはまったく逆に、あ
たりには生命力が渦巻きながら、激しく燃焼しているかのようでした」(同98頁)。

平山氏は、1945年(昭和20年)8月6日広島に15歳旧制中学生のくりくり坊主に戦闘
帽、ゲートル(足のくるぶしから下をやや厚い布でぐるぐる巻きあげ、怪我を防ぐ)の
姿でいたのです。「おい、みんな!変なものが落ちてくるぞ。そういって小屋にとびこ
んだ瞬間、『バシッ』とあたりが白く輝いたかと思うと、一瞬目がくらみました。小屋
の板の張り目から、マグネシウムを燃やしたようなもの凄い大閃光が射し込んできまし
た。強烈な熱気を伴った閃光です。続いて、ガーンという轟きが耳をつんざきました」
(同51p)。歩いても歩いても追ってくる炎、どうにか地獄の業火から逃れてきても友
人たちは言うに及ばず、道にうずくまり、無造作に倒れ、血みどろになっている形容を
絶する人々、そんな人々をまのあたりにしながら生きながらえてきました。そして「山
の斜面に、あえぐようにへたりこんで、・・燃え続ける広島の町をじっと眺めていた」
というのです。

 このような体験をされた平山氏は、このような経験を語りだしました。平山氏もまた
人知れず苦しんできたのですね、

 さて平山氏は「死と破壊の使者『原子爆弾』の魔の手に奪われた友や幾多の犠牲者は、
しかし、あの瞬間を生き延びた者の胸の中に、代わりの生を得たのでした。生き延びた
者たちが生き続ける限り、友たちもまた生き続ける。いやむしろ、あの人類最大の過ち
の犠牲となった者の生は、生き延びた私たちがいかに生き、いかに贖罪の生を生きるか
ということを通じてのみ、生き続けるという気がしてなりません。」そう言われます。
これを語り継ぐべき人々を絶やしてはなりません。
 いま戦後64年、新たな思いで、平和を築きましょう。