10月         館長からのたより          雨貝 行麿
 10月、札幌は秋です。

かっては10月21日を学生反戦ディーと言った時があります。昭和18年のこ
の日、「学徒出陣」が東京、神宮外苑競技場で挙行されたことを想起したのです。
学生たち、中にはま学業をはじめてまもない者たちにまでも学業を放棄して戦場
にゆけと国家が命令したのです。当日は秋雨が来ていました。時の首相東条英機
が「皇運を扶翼し奉る日は今日来た」として戦況打開とはいえ、政治的にも軍事
的にも見通しのないまま、若者たちを鼓舞し、学生もまたその代表は「生等(我
らの意)いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげてことご
とく光栄ある重任に捧げ、・・・生等もとより生還を期せず」と宣言して大学旗
を先頭に、分列行進しました。雨の中、期せずして「海行かば」の大合唱が響き
渡ったのです。男子学生
25千、スタンドで見守る女子学生5万。
 この出来事に遭遇した堀田善衛はつぎのように書いています。「学生たちは、
いずれもみな唇を噛み、顔面蒼白に、緊張している、と見えた。・・丙種不合格
までもが一斉に
121日に入営することとなったのである。・・降りしだく雨の
なかに、口々に叫びをあげながら駆けていく女学生たちの眼からもたわわに泪が
溢れていて、彼女らは泣き、そして何かを絶叫しながら、行進して行く大学生た
ちの列のあとを、水しぶきをたてて追って走る。濡れた頬に髪の毛がはりついて
いる女の子がいる。なかには道に転んでそのまま濡れたアスファルトの道を平手
で叩きながら泣いている女の子もいる。・・こういう学生たちまでもお召しだの
なんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようという
のだ」(『若き日の詩人たちの肖像』)

 こうして戦場に出かけて、戻らなかった青年たちの中から美術科の学生たちが
かき遺した作品展が今開催されています。札幌駅前の札幌エスタ11階にプラニ
スホールで18日まで(開館19時まで)無言館「祈りの絵」展を訪ねました。

そこには、やわらかな光のもとに、20代前半の画学生たちが書き遺した作品
とその遺品が置かれています。新婚の妻を描き、まだ恋人がいないが、妹を、母
を描いた。「できることなら行きたくない。生き残って鋳金の作品をつくりたい。
姉の耳にそっとつぶやいた太郎の眼に涙が光った」と記されています。なかには
「軍隊でくれる着物で十分だから心配するな」と書き、「戦死広報に接したる場
合、万歳を唱え、笑顔で迎え、簡素な葬儀をして国防献金を」と、残される者た
ちへの配慮を懸命に語っています。その若さで、自身は過酷な運命に投げ込まれ
ながら、どうしてそんな身の回りの人々への心配りをするのか。

まだ十分には生ききっていない青年たちを喪った。会場には、長野に「無言館」
(戦没画学生慰霊美術館)を作り、全国各地に遺された作品を訪ね、彼らの遺志
を伝える窪島誠一郎氏が片すみに静かに座っておられました。

氏は「画家は愛するものしか描けない。

   相手と戦い、相手を憎んでいたら

   画家は絵を描けない。

   1枚の絵を守ることは

   「愛と平和」を守るということ。」と語っています。

わたしは、窪島氏の話を聞きたいと、一冊の本をいただいてきました。『傷つ

いた、画布の物語−戦没画学生20の肖像』です。