2009  11月   さむくなりました。いかがおすごしですか。 館長 雨貝 行麿

北海道キリスト教書店のショウ・ウインドーにはアドヴェントからクリスマスに向けた飾り付
けがなされ、クリスマスカードが取り揃えられ、いつもより一段と華やかになりました。

 さて日本キリスト教団札幌地区委員会が主催し、札幌北光教会を会場に「木曜礼拝」として
12時半から1時ぐらいまで小さな礼拝をしています。10月中は讃美歌21の433番がうたわ
れました。今回はこの讃美歌に関してお話します。

この歌詞の1節は以下のようです。

1.      あるがままのわれを 血をもてあがない、
       イエス招きたもう、み許にわれゆく。

これは讃美歌(前の)では

1.      いさおなき我を 血をもて贖い、
    
    イエス招き給う、み許にわれゆく。

今回の讃美歌委員会は「いさをなきわれ」が「あるがままわれ」としました。「原文にもどす」
といいます。原文は英文です。
Just as I am、直訳は「あるがまま」でいいのです。そして
この言葉がこの歌詞の
節まで冒頭繰り返されます。しかし、前の讃美歌と同じく21でもこ
の言葉の繰返しをしていません。その意味で21では
1節の出だしを「直訳」にしただけで、
「原詩にもどして」いません。原詩の枠組みは「
Just as I am」(直訳は「ありのまま」)
の頭韻と後半「み許にわれゆく」の脚韻でつくられています。一見すると「ありのままで」
「み許にわれゆく」というまとまりになりそうです。

 『讃美歌21 略解』には「『主を受け入れるためには特別の準備をする必要はなく、ただ主
にすべてをゆだねればよい』という主張を美しくうたっています。」(執筆者は
MHです)。

たしかにキリスト教信仰では「わたしの側に特別の準備はできない」のです。「必要がない」の
ではなく「準備はできない」からこそ神の絶対的は恵みがあるのです。そこから、この詩のすべ
ての節「み許にわれゆく」の言葉の直前に、くりかえし「神の子羊」が明記されています。この
言葉が「あるがままのわれ」が「み許にゆく」のに決定的は契機、絶対的な恵みなのです。

 「あるがままのわれを」「そのまま神さまが受け入れてくださる」としたら、キリストの十字
架をむなしいことにしてしまいます。キリストが十字架におかかりなった、神の子羊!そのゆえ
にわたしどもの深い罪が赦されて、「神さまが受け入れてくださる」のです。「あるがままのわれ
を」直接・無媒介に「神さまが受け入れる」ことがあるとしたら、キリストの十字架をむなしい
ことにしてしまいます。それをキリスト教の歴史では「無律法主義」といいます。

 この作詞者は、「神の子羊」がおられるので、「み許にわれゆく」とうたうのです。その意味で
「いさおないわれが」受け入れられるのです。神さまのわたしどもには絶対的で絶大な恵みです。

 すでに『讃美歌の研究』を出版した竹内信氏がその書物の中で「十字架に屠られたまいし神の子
 イエス・キリストを対象とせずしては『在るがままに、…われみもとにゆく』も意味のないもの
 になってしまう。…あるがままにて、みもとに行かんと促すものは、この『神の子羊』なのであ
 る。字数の制約で除かれているこの句を忘れずに『神の子羊』を心に仰ぎつつ歌いたいものです」
 (p
.270)といっています。讃美歌の原詩は明確な信仰理解に立っています。

  過日の木曜礼拝の担当をして、この点をお話ししました。讃美歌をうたう季節がきます。