2月                   雨貝 行麿(館長)

2月 春分をすぎると日射しが明るくなります。お健やかに!

1月にはドイツの再統一ののち、ドレスデンに再建された聖母教会(フラウエンキルヘ)
のことをお話しいたしました。今回は引き続いて近くの街ライプツィヒのことを話します。

ドレスデンから列車で1時間北に走りますと、そこがライプツィヒです。この駅舎はドイツ
でも最大で、交易・通商の拠点であることを示しています。街の担い手は商人です。中世には、
プラハの大学(カレル大学)から学生・教師を受け入れて大学を新設しましたし、宗教改革を
早期に導入し、またドイツ最古のオーケストラ、ゲヴァントハウスを造りました。歴史のなか
で先進的な役割をはたしました。そのこともあって時には時代の潮流のなかで、振幅も激しい
ものがあります。

 かってナチスの時代には、市長が彼らを保護したこともあります。ここに音楽学校を創設
(瀧廉太郎が来ました)したメンデルスゾーンをユダヤ系としてその記念碑さえ撤去しました。
戦後の政権のもとでは、彼が資本家の子弟であるとして復権させませんでした。そして今では、
メンデルスゾーンの旧居を修復して、記念館とするばかりではなく、かってのサロンをも復興
させようとでもするかのように日曜日ごとに若い音楽家によるコンサートを開いています。

 歴史的に振幅が激しい、と言いますのはもう一つご紹介しましょう。

2次大戦末期ここをアメリカ軍が占領しますと、ナチスの思想を信奉する当時のライプツィヒ
市長はその家族とともに市長室で自害しました。まもなくソ連軍が進駐しました。世界に名だた
る評価をもった大学は『カール・マルクス大学』と名称をかえ、大学前の広場も「カール・マル
クス広場」とました。大学本館とメンデルスゾーンが『パウロ』を初演した本館に並ぶ聖パウリ
大学教会堂は無傷で残っていました。しかし本館は、まもなく高層ビルデングに建て替えられ、

1968
5月には、大学教会堂はダイナマイトで爆破され、その跡に大学生協の建物ができました。
その同じ
8月には、隣のチェコでは「プラハの春」が終焉しています。

大学の営みは、時代の政策をリードする思想的機関であるとする思想が、その当の大学人たち
においていても強化され、大学は、特定の思想のもとにおかれたのです。

 大学生協には「カール・マルクス大学」にふさわしい大きなレリーフ、カール・マルクスの顔
がかかげられますと、その門の前には、その建物を凌駕する大きな鉄骨でトライアングルが、か
っての大学教会堂があったことを誇示するかのように組み立てられました。旧市街に入る路に大
学教会のアルヒーフ、その威容の全景写真と内部にささげられていた彫像群が保存されて展示し
てありました。大学教会がここにあったとの意志表示です。

 そして2010年、再統一後は「カール・マルクス大学」とその「広場」の名称は以前にもど
りました。さらに、あらたな装いではありますが、かってを彷彿とさせる外装を示す大学教会堂
が再建中です。この時代に、どのようなキリスト教を表現するか期待するところです。市民たち
は、イエスさまの福音は人と社会に何をもたらすか、期待しています。

 この街において、およそ50年の間にわたっておこってきた事象をみてきました。熾烈な政治的
闘争がおこなわれてきたことがわかります。いうまでもないことですが政権の政策によって歴史
的評価や市民生活の日常が、おおきく変化するということをまざまざと示しているということが
できます。

雪まつり大通公園7丁目 
                                                 ドレステン-フラウエン教会 雪像