5月

                      雨貝 行麿

作家の井上ひさしさんが亡くなりました。

「胸のうちには悲しみよりも、むしろ喪失感がまさって、その心の空洞をどうにも埋め合
わせられるままに日々が過ぎている」と作家の浅田次郎さんが『仁者の死』として書いて
おられました(「朝日新聞」
430日)「仁者」とは、として「常に相手の立場に立って
考える」人であり、「仁者必ず勇あり」との言葉をひいていました。

井上さんは、少年時代に、貧しい暮らしの中でカトリック司祭の方との交流を温かく描い
ておられました。司祭の方が、個性を顕著にし始めた青年たちこそ世界史の未来をつくる、
という確かな見識をもっていたことを描いていました。またケッサクな言葉のやり取りで
評判のえた「ひょっこりひょうたん島」の戯曲を書いたかたでした。平和を第一とする
「ドン・ガバチョ大統領」が印象的でしたが、最近では日本国憲法、とくの平和条項である
その「九条を守る会」(『九条の会』)を立ち上げた一人でした。

 小田実が逝き、加藤周一氏がなくなりました。大きな戦争の惨禍のあと「日本国憲法」
を戦後の日本の民主主義を尊いことを説く論客たちが一人また一人といなくなりましたが、
かれらのこころざしを継ぐように、井上ひさしさんは『子どもたちにつたえる日本国憲法』
2006年)に書きました。そのなかで「おおきな失敗をしでかしたあとは、ああ二度とあの
ような失敗をしないようにと思う。そこが人間のすばらしいところです。」そこで、ひとが
世界にまたがる大戦争をしたあとで、世界の人たちの痛切な願いをひとつに集めたもの、
それが「日本国憲法」ですと語りかけました。「憲法」の前文にあたるところを


「日本国民は、

これから築きあげようとする   私たちの国のほまれのために

ありたけの力を振りしぼって  これまでに書いたことを  やりとげる決心である」

と、自分の言葉として子どもたちに伝えようとしています。


ただ、人間は忘れることの名人でもありますし、また戦争の惨禍に目をつぶるひと、戦争が
もたらす悲劇を経験しなかった人々がすっかり多くなりました。わたしどもは、この「平和
を築こう」とするために、この「憲法を守ろう」としたいものです。氏は、世界のなかで
「のびのびとおだやかに生きる事」をなによりも大切に生きたいと願う世界中の人々にとって
は希望なのです、と書いています。

 わたしは、憲法制定記念祝賀を「憲法が定着したのでとりやめた」とする政府が、まもなく
「憲法改正」に動き出したことを知っています。選挙の度ごとに、この憲法をどのように評価
しているかを規準に候補者を選びました。

 この憲法の精神を築くのは、教育の力によるとしていた、かっての「教育基本法」の精神を
改めた勢力は、もっと古い、いわゆる「教育勅語」を手がかりとする力と連携して、日本を
世界史の究極の方向「世界平和を築く」ことから、はずそうとしているように思えます。

 浅田氏は、「仁」の字は「二人の人」を意味し、ひとに対する小さな善意、優しい心遣いを
井上さんとともにこの国に絶えている、その喪失感を、さらに言っています。


 あらたに、小さなこころざしをもちたいものですね。