館長の言葉

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 北海道クリスチャンセンターは「納骨室」に、ご遺族からご遺骨をお預かりしています。

 毎年9月下旬の土曜日を「永眠者記念」としてご遺族をお招きして礼拝をささげています。

当センターの聖歌隊の方々のご奉仕がありました。以下礼拝説教を記します。

 

 最近、文化交流使節として中国を訪問した方が、日本の文化の紹介の一環として、日本

ではとても著名で親しまれている、滝廉太郎作曲の「荒城の月」を歌いましたとこと、会

場の中国の方々が、退場していったというのです。後に知らされたことは、日本の旧軍隊

の兵士たちがうたっていたことを思い出すためだということでした。

 心しなければなりません。善意でも、わたしどもは知らず知らずに相手を傷つけるとい

うことがあります。「知らず知らず」ですから謝ることもできません。でも相手を傷つけて

います。これをキリスト教では「罪」といいます。「罪」は一つではなさそうですね。そこ

で複数で「罪」(sins)と必ず言います。

 今、ご一同で讃美歌312番「いつくしみ深き、友なるイエスは」を歌いました。亡く

なった方々を記念する場所で「歌をうたう」とは差し控えるべきことでしょうか。まして

やこれはプロテスタントでは結婚式で歌われます。祝いの時です。しかし、カトリックで

は葬儀で歌います。そこで今日、この賛美歌をうたうことは許されることでしょう。

 イエスさまは、いかなるときにも友です、それは「共にいる」ことですね。イエスと言

う方が、わたしどもと共にいてくださる方ですと歌います。この賛美歌を作詞した方は、

婚約者を天に送ったばかりでした。手許から失いましたが、その悲しみと苦しみを、共に

いて、分かち合って下さる方こそイエスさまだからです。なぜなら、イエスさまご自身は

病を知り、悲しみをにない、苦しみをもだえた方だからです。このもとの英文の詩は『イ

エスさまはわたしどもの罪と悩みをことごとく担ってくださる。なんと特別な計らいがあ

ることか、ひとつひとつのことを神さまに祈り、ゆだねねることができるとは。』

今日お読みしました聖書は「幸いなるかな、悲しむ人びと。その人たちは、慰められる。」

(マタイ福音書5章4節)です。この「悲しむ人たち」とは「うめくようにして」悲しみ

の極みに投げ込まれている人びとのことです。ですから、この「幸い」はそのまま「み

たされている」ということより「神の恵みによって」なのです。この「神の恵み」がな

いと「悲しむ人々」が「幸福」「みたされている」などとひとに言ったらはりたおされる

でしょう。うめくような苦しみ、嘆き、哀しむ人々は、神イエスさまにとりましてはひ

と事ではないのです。その悲しみにうめいている人こそが神の恵み、イエスさまの慈し

みがもっとも大きなものです。あなたの悲しみ、うめいた日々に、イエスさまは支えた

のです。それゆえ、大いなる感謝を生き、神さまの恵みをたたえましょう。さらに、地

上の生涯をおえて、もはや罪から解放された方々の唯一の願いはただ一つです。地上に

残してきた方々が、イエスさまが賜る、平和で健やかに守られて生きること、実り豊か

に生きることです。

                                  雨貝 行麿