館長の言葉
2011年2月 例年にない大雪です。お元気ですか。
昨年の12月、ドイツの新聞に「墓碑のまえに跪く独りの人」のやや大きな写真が掲載され
ました。それは1970年12月当時のドイツ連邦共和国(西ドイツ)首相ウイリ・ブラント
(1913~1993)がポーランドのワルシャワを訪れ、そこの「無名戦士の碑」に花輪をささ
げた時、彼はその瞬間その碑の前でひざまずいた、その写真です。わたしはその出来事か
ら40年がたったこと、その間に起こった歴史を想起させました。
ことの起こりは1939年9月当時のドイツがポーランド国境を軍事的に踏み越えました。
これが実質的には第2次世界大戦となりました。その結果人間のあらゆる悪が顕在化しま
す。6年間、ヨーロッパでは殲滅、殺戮、破壊、ありとあらゆる悪徳が支配しました。その
結果「ヨーロッパの光景は、悲惨と荒廃の極み」と『ヨーロッパ戦後史』(原題「Postwar
-A History of Europa since 1945」2005年)にトニー・ジャットが書いています。
その第1撃を『戦場のピアニスト』の映画は描いていますが、ポーランドの人々の普通の
生活を破壊し、青年兵士たちの屍を築いたことを忘れないための記念碑でした。彼のひざ
まずいた行為は、その写真とともに世界に配信されました。西ドイツ首相が、引き起こし
た戦争を「謝罪した」ということでいた。彼が、当時の東ドイツの都市エアフルトに訪ね
たところ東ドイツ市民の熱い歓迎を受けたとも伝えられました。しかし西ドイツでは彼の
行為は雑誌『シュピ-ゲル』の世論調査では評価がわかれていました。
ブラントとはどのような政治家だったでしょうか。彼はナチス台頭のためにノルウエー
にわたり、反戦活動をしましたが、その時の偽名が「ウイリ・ブラント」でした。オース
トリアから亡命してきたブルーノ・クライスキー(1911~1990)と知り合います。(クライ
スキーは戦後オーストリアにもどり1955年オーストリアを永世中立国として独立させるこ
とになります。)やがてブラントはスウェーデンに亡命します。その意味では彼はナチスの
抵抗し、その市民権を剥奪されます。戦後ドイツに帰国してやがて東西冷戦の最前線であ
った西ベルリン市長となり、もっとも困難な時代を切り抜けました。戦後奇跡の復興を成
し遂げたアデナウアーのあとを受けて西ドイツ首相となります。1965年カトリックのヴァ
チカン公会議の後、ポーランド司教団は独自にドイツ司教団あてに第2次大戦末期東方か
ら避難したドイツ人に対する関係改善のメッセージを送ってきていましたが、この信号を
彼は見逃しません。ブラントは東方外交を人的にも積極的に推進して「関係改善」を図り
だします。西ドイツとポーランドの間にある「ドイツ民主共和国」にメッセージを送った
のです。さらに東の後ろ盾モスクワとの条約を結び、現状を現状として認識しドイツ・ポ
ーランド国境として「オーデル・ナイセ」を承認しました。歴史的な膠着状態に誠実で真
摯な新たな手法をとって自分の側から自分の手で融かそうとしたのでしょう。党派を超え
て支持者がいました。東西緊張緩和政策でした。後にワイツゼッカーは「もっとも苦痛を
ともなう、政治的主導で、もっとも深いところで人間の感情に触れる行動」(『統一への道』
54頁筆者が改訳しています)と評価しました。彼はナチスの支配のもとでは個人としては
「被害者」でした。しかし、ヨーロッパ全域の殲滅、殺戮、破壊という邪悪の支配のあと、
彼は「加害者」として過去の歴史に立ち向かい、過去の歴史から問われたのです。彼は、
その『自伝』で「そうするしかなかった」と言葉少なに語っています。しかし、写真に写
された彼の態度は、ヨーロッパでの和解の一歩として多くの人々の心に深く残りました。
雨貝 行麿