館長の言葉

オーストリアの原子力発電に関して

日本は、自然災害、地震の多い国土です。今回、地震とその後生じた津波によって福島

に設置されていた原子力発電所の原子炉に重大な損傷が生じて、いまも16万をこえる方々

が避難し、日常生活にもどることも、その見通しさえつける事が出来ないでいます。

 この原子炉の事故は、地球規模での原子力発電に対する政策に検討をせまられました。

地勢をつなぎ合わせているヨーロッパでは従来からの原子力発電に対する警戒、拒否の感

覚が呼びさまされ、なかでもドイツでは原子力発電所に、やや延命策を取り始めていまし

たが、福島の事故を契機にしてその廃棄に方向転換しました。つづいてイタリアでは国民

投票によって原子力発電所を圧倒的多数が拒否をしました。

わたしはこれらに先だってオーストリアでの原子力発電所の廃棄の法をもっていること

をお話ししたいとおもいました。

オーストリアでは、チェルノブイリの事故以前、1978年に、国民投票で廃棄を決めまし

た。ウイーン郊外北西40キロ、ドナウ河の岸辺の高台ツベンテンドルフに1977年原子力

発電所を建設しました(3,800億円)。そもそもオーストリアは石油、石炭、天然ガスなど

の資源にめぐまれていませんでした。今後電力の需要が、やや増える方向にあることが予

測されていました。19692大政党であった社会党と国民党の合意によって1972年、原

子力発電所の建設がはじめられました。まもなく国民たちに原子力の利用に疑義がおおき

くなりはじめ、放射性廃棄物の問題にくわえて、人間の知恵と技術では制御することがで

きないのではないかとの思いが高まりました。政権をもつ社会党は、国民に判断をゆだね

ようとしたのです。政府が「弱腰」ではなく「歴史に良心的に対応する」とした姿勢でし

た。その結果、賛成49.54%、反対51.46%の僅少差で廃棄がきまりました。

 ここで、わたしはオーストリアの戦後の社会、政治、精神性の発展に、とても健康的な

すがたをみることができるのではないでしょうか。ナチスからの解放、戦後の国家体制の

再建にひとかたならぬ理性的、良心的な方向が見て取れます。ナチス支配の時代に亡命を

余儀なくされていた政治家クライスキーは戦後帰国して、周辺世界がソ連によって支配さ

れるとき1955年オーストリアを「永世中立国」として、その独立を達成しました。クライ

スキーの政治的活動に、その良心的姿勢が大きく働いていたといわれます。戦後のヨーロ

ッパの再建のためには、右に与するかするか左に与するか、大きな誘惑にあたったことで

しょう。しかしオーストリアは、懸命に踏みとどまり、文化的再建に意をもちいたのです。

その歴史的基盤もありました。18世紀から20世紀初頭にかけて世界に冠たるハプスブ

ルクの遺産を賢明に後継して、散逸、放置、消耗しませんでした。ドイツ語文化圏にあり

ながらドイツと一線を画して、「小さくて、美しい国」であるのにとどまらず「文化的で良

心的な国」をめざしました。そのために最近の湾岸戦争に際しても、中立をたもちました。

 1980年原子力発電所の再開を容認し「原子力禁止法」を撤廃する署名が集まりました。

1985年議会で再開の提案がなされましたが否決され、その翌年チェルノブイリの事故が発

生したのです。この深刻な被害状況を認識したオーストリア国民は、もはや「理性と良心」

的な判断で原子力産業を容認しなくなりました。歴史から学ぶ、ということでしょうか。

                                  雨貝 行麿