館長の言葉

8月15日は、かって「大東亜戦争」といっていた戦争がおわった日です。

7月北海道クリスチャンセンターが主催して「沖縄平和ツアー」を行いました。たずねた

小さな「町」が新装した町立歴史館をたづねました。展示は時代順で、戦争末期と戦後の

米軍占領期が充実していました。かって小さな町に木造の小学校が建てられ、そこにコン

クリートの忠魂碑や「奉安殿」(天皇皇后の写真が備えられていまして、子どもたちは、そ

の前で最敬礼をする)の模型と各写真が展示されていました。木造の校舎は焼けても、こ

れだけは焼けないように、頑丈に造られていたことを解説して、戦後直後、その奉安殿を

撤去するにあたって爆破する場合の注意書き、文部省通達の写しも展示されていました。

よく整備した、という感を深くしました。地面が「あばたのように」なった艦砲射撃の砲

弾が炸裂した写真、そして米軍に「保護される」人々の顔、さらには戦後の急激なアメリ

カ文化の流入の様子などが展示されています。沖縄の小学生たちが見学していました。し

かし付き添いの先生方も、体験していない時代のことになっています。「だから」小さな町

の人々は熱心に、心をつくして、語り継ぐべき歴史館を新装した、との印象をもちました。

わたしは、戦争時、就学前でしたが、当時の記憶をたぐりはじめました。

記憶に残ることがあります。東京の、当時は「芝白金」に住んでいました。今の港区で

東京湾から近いのです。昭和19年(1944年)になりますと夜、太平洋からまっすぐ

米軍機は「侵入」します。その爆音(エンジンの音)で目覚めることが多くなりました。

爆音でアメリカの飛行機か日本の飛行機がききわけられ、逃げる支度を急がなければと緊

張していました。「とうぶぐんかんくじょうほう」(東部軍管区情報)とラジオが注意を喚

起します。そのうち、爆撃機B29が昼間でも高空に飛行機雲をひきながら飛ぶ銀色にひか

るすがたをしばしばみることになりました。

 ただこの近くに爆弾が落ちることはない、と母はいいました。なぜなら「明治学院」と

いうアメリカの学校があるから、そう、ちょっと安心して自分に言い聞かせていました。

 ある夕方、町内のはずれにある忠魂碑のある広場に母に手をひかれて、でかけました。

町内から「出征兵士」を送る行事でした。当時は各家庭に、日の丸の手持ちの旗は常備さ

れていましたからそれを手にして出かけます。薄闇の中、すでにたくさんの人々が手に手

に日の丸の旗を手にして、つどっていました。忠魂碑の前にひとりの男子が胸にななめに

白い襷をしています。「勇ましい」という印象は子供心にありません。むしろ何か全体の雰

囲気が暗く沈んでいました。白黒写真のように脳裏に残照となっています。みなで兵士を

送り出す歌を歌い送り出して、言葉が終わって大きな声で「万歳」を叫んで、すべてが終

わって、いつもなら夕餉のために急ぐ女性たちが、暗い顔をしてささやきあうのを耳にし

ました。「出征」をみながみな、実は喜んでいるのではなく、もう希望を失っている。母は

幼い私にむかって「ほんとうは、悲しんでいるのよ」と言い聞かせたのです。戦争でなく

なったひとたちは、なにも語ることはできません。

 沖縄でも市民が戦場にまきこまれた経験そのものを語るひとびとはいなくなりはじめて

います。だからこそ忘れてはならないことを心をこめて語り継ごうとしているようです。

                                  雨貝 行麿