2007年6月の言葉     館長 藤原 亨 
 

本州では6月になりますと、夏の衣替えになります。本格的な夏に備えることになりますが、北の大地ではむしろさわやかな季節になります。季節はさわやかになりますが、その一方で私たちの周りでは重苦しい空気が漂っております。改憲を目指す安倍首相の思い通りに「国民投票法案」が先だって可決して成立してしまいました。安倍首相は改憲の理由として「戦後レジームからの脱却」を目指すと言っておりますが、憲法だけが占領軍から押し付けられたものではなく、民主主義そのものも同じように与えられたものです。戦前や戦中を生きた者にとって、民主主義になってどんなに喜んだか、人間らしく生きることが出来るようになったことにどれほど感謝したか、当時を知らない人たちには想像もつかないと思います。敗戦までの日本は、ちょっとでも戦争反対の言動でもしようものなら、特高(特別高等警察)や憲兵隊に引っ張られるという恐怖の中、言論の自由や思想の自由など皆目なかったのです。思想統制ばかりでなく食べ物の統制などがんじがらめの生活を強いられた生活であった。戦後レジームからの脱却を目指すというがまさかそのそんな時代へ逆行することを狙っているとでも言うのでしょうか。一月ほど前の朝日新聞の「声」の欄に、以下のような投書が掲載されておりました。安倍総理が戦後レジームからの脱却と言うが、まさに「戦後レジーム」とは、沖縄を初めとする米国の基地こそがそれではないのか。そのことを解決することなしには戦後レジームからの脱却はあり得ないと。私も全くそうだと思います。この夏行われる参議院の選挙で安倍内閣の野望を打ち砕くようにしなければ、日本の将来は暗澹たるものになってしまうと懸念せざるを得ません。そうならないようにと祈るほかはありません。 

      
「あつもり草」                        「はくさんちどり」

自分史を綴ることについて

5月の言葉で、次回から何回かに分けて自分史を記してみたいと予告いたしましたが、それは憲法改悪と教育改革を推し進めようとする現内閣の目指す所は、かつての軍国主義日本へと逆戻りするのではないかと危惧することと、私自身誰にも負けない軍国少年であった背景には当時の軍国教育があったという「教育の恐ろしさ」を身をもって経験しましたので、そのことを若い方々に少しでも知っていただいて今の状況を正しく判断していただきたいと願うからです。

正確なメモもなく記憶にあるところを記しますので、中には事実誤認や記憶違いなどもあるかも知れないことをお断りしておきます。

    

自分史 T

私は、熊本県荒尾市において1936(昭11)年3月に兄弟7人(男5人、女2人)の末っ子として生まれました。父は、三井三池炭鉱の鉱員でした。当時荒尾市には、三井の炭鉱が2坑あり、家から3キロほど離れた万田坑の従業員(坑外員)をしておりました。2坑にはそれぞれ通称ハーモニカ住宅と呼ばれる炭鉱住宅街がありましたが、我が家は小さいながらも父の造った家に住んでいました。決して豊かではありませんでしたが、さほど貧乏でもなく極普通の家庭でした。国民学校へ入る前の年だったかに紀元2600年の旗行列に興奮しながら付いて行ったのを記憶しています。

1941(昭16)年12月8日に、日本は大東亜戦争に突入しました。その翌年の1942(昭17)年に国民学校(国民学校2回生になります)に入学しました。4年生で敗戦を迎えましたが、それまでの4年間の学校生活はいろんな意味で大変でありましたが、その一方で戦争大好き人間となり、軍国少年への道のりを歩んだ年月でもありました。2年生位までは、戦況もそれほど悪くはなく教師や親から聴く話は日本軍は何処ででも勝ち進んでいるというものでした。学校の先生たちの殆どは厳しい教師が多く、1,2年生の時の担任の女教師はことのほか厳しく、毎日1時間目の授業が始まる前に「海行かば」の軍歌を起立して歌う時にちょっとでもふらふらしたり、姿勢が曲がったりしていたら廊下に椅子を持って立たされたりしたものです。(続く)