2007年8月の言葉        館長 藤原 亨 

8月を迎えましたが、皆様方お健やかにお過ごしのことと思います。前に26年間住んだ鹿児島は連日35度以上の猛暑日が続いておりますが、こちらは日中はすこし暑くても朝夕は涼しさを通り越して寒さを覚える日さえあります。日本の国土は北から南までの距離が大変長いことを痛感させられます。
  さて、29日は参議院選挙が行われその結果が判明しました。翌日の新聞には「自民歴史的大敗」(朝日新聞)、「自民惨敗」(北海道新聞)の大見出しが踊りました。朝日新聞の政治エディター氏は「辞任に価する審判」と論じたにも関わらず、安倍首相は政権を続投すると明言してはばかりません。今回の選挙の結果が安倍政権の余りにも強引なやり方に対する国民の「ノー」であったと思われるにもかかわらず、それを無視して続投することをどう受け止めたら良いのか判断に苦しみます。

私は、今の日本の動きに何の影響を与えることも出来ませんが、苦しみを余儀なくされている多くの国民のために奉仕する政治を行う政権へと変って行くために祈り続けて行きたいと考えております。今の私に出来る「祈り」の武器を行使し続けていかなければならないと考えております。 

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自分史を綴ることについて

敗戦を国民学校4年生で迎えた私が、誰にも負けない軍国少年であった背景には当時の軍国主義教育があったという「教育の恐ろしさ」を身をもって経験しましたので、そのことを若い方々に少しでも知っていただいて今の状況を正しく判断していただきたいと願うからにほかなりません。

正確なメモもなく記憶にあるところを記しますので、中には事実誤認や記憶違いなどもあるかも知れないことをお断りしておきます。

自分史続き V

国民民学校3年生(1944年)になると、戦況は極めて厳しい状況になって来たように思います。食料は段々と乏しくなり米や味噌・醤油は政府からの配給で何とか生活出来ておりました。しかし、その年の暮れ頃からは配給も遅配が多くなり加えて配給量が極少量になってきたと思います。それと同時にB29爆撃機による空襲が段々と激しくなったように思います。

そんな中、学校から帰ったら近所の1年生から4年生位までの子が近くの広場に自然と集まって来て、必ずと言って良いほど2組に分かれて戦争ごっこをしたものです。時には女の子も仲間に加わって敵・味方に別れて棒切れを持って戦争ごっこに夢中になったものです。

確かな敗戦の前年の秋頃からB29による空襲がひどくなって来ました。初めは三池工業地帯や荒尾市にあった軍事工場などが空襲の目標になっておりましたが、確か1945(20)の初めに大空襲により大牟田市の殆どの市街地と私の住む荒尾市の少しが焼け野が原になりました。その日私たち家族は、初めは自宅庭の小さな防空壕に非難しておりましたが、焼夷弾の投下がひどくなりこのままでは危険であることを察知して皆で、高台に横穴式に掘ってあった部落の防空壕まで1キロほどの道を焼夷弾が雨あられと降る中を、布団を頭に被って命がけで鹿児島本線の線路を走って逃げました。その時の恐ろしさは今でも忘れることが出来ません。もし焼夷弾に当たっていたら確実に命はありませんでした。やっとの思いで辿り着いた少し高台の防空壕からは、大牟田市の市街地が真っ赤に焼ける光景が目に飛び込んできました。目の前の空が真っ赤に燃えている光景は、不謹慎かもしれませんが壮観であったという以外に言いようがありません。その時の空襲で我が家の200メートル近くまでの殆どの家が焼けましたが、我が家は無事でどんなに助かったか分かりません。というものその3年後の1948年(S23)の秋に父が心臓病のため急死いたしましたので、その時家を失っていたら再建築が難しく住まいに困ってしまったかも知れないからです。(続く)

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