2007年9月の言葉        館長 藤原 亨 

8月が終わり9月を迎えました。札幌在住2年目の今年の夏は大変暑い日が続きました。皆様方、夏のお疲れが出てはいませんでしょうか。

初めての昨夏は、さほど暑さを感じませんでしたが、本年の夏は本州とあまり変わらない暑い日が何日かありました。それでも、やはり北海道はクーラー無しで過ごせるとはなんとありがたいことでしょう。クーラーと言えば、私は妻と二人でこの夏いろんな所へドライブをして、昨夏経験出来なかったことを幾つかいたしました。私たちは、ドライブ中は昼間でも一回もクーラーを入れずに走りましたし、駐車中でも一回もクーラーを入れませんでした。エコ運転を心掛けて走りましたが、残念なことに何処に行っても北海道ナンバーの車(勿論、道外の車の中にも入れっぱなしの車もありましたが)は、殆どの車がクーラーの入れっぱなしで、環境に対する意識の希薄さを痛感いたしました。夕方、心地良い風が吹いているのに、わざわざクーラーのかけっぱなしで大変遺憾に思いました。

この夏の経験の一つは、7月下旬に「雨竜沼湿原」に登ったことと、沼田町の「ほたるの里」で蛍に出会ったことです。

先週は、初めて知床五湖を巡る機会に恵まれました。と言いますのは、今まで何回も知床を訪ねていますが、熊が出るため二湖までしか行けませんでした。たまたまウトロの近くの「遠音別川」にカラフトマスの遡上が見られるということで出かけました。河口付近から300メートルほどの川に数え切れないほどの大群が川上に向かっている光景は、正に感動そのものでした。そこで、今は五湖まで行けるとの情報と清里村の斜里川に「サクラマス」の遡上が見られるとの情報を得て、どちらも行って見ました。
 初めて五湖を回れたことと3メートもある堰堤を飛び越えようとする魚たちの命の躍動は感動の一語に尽きるものでした。大変良い夏を過ごせて感謝で一杯です。

一湖より見る知床連山

   
 サクラマスのジャンプ


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自分史を綴ることについて

5月の言葉で、次回から何回かに分けて自分史を記してみたいと予告いたしましたが、それは憲法改悪と教育改革を推し進めようとする現内閣の目指す所は、かつての軍国主義日本へと逆戻りするのではないかと危惧することと、私自身誰にも負けない軍国少年であった背景には当時の軍国教育があったという「教育の恐ろしさ」を身をもって経験しましたので、そのことを若い方々に少しでも知っていただいて今の状況を正しく判断していただきたいと願うからです。

正確なメモもなく記憶にあるところを記しますので、中には事実誤認や記憶違いなどもあるかも知れないことをお断りしておきます。

自分史W

国民学校2年生の終わり頃に校庭が「防空壕」と「からいも(さつまいも)畑」に変身してしまいました。2年生といってもまだ8歳でしたが、数名のグループに分かれて防空壕を掘りました。国民学校のあった一帯は赤い粘土質の土が殆どで校庭も固くて赤い粘土でした。その土を自分たちの背丈よりも深く十人以上入る穴を掘る仕事は、並大抵のことではありませんでした。何日間かかかって掘りあげた時には自分が大仕事をやり遂げ、大人の仲間入りを果たしたような気持ちになっていたことを忘れることが出来ません。防空壕以外の空き地は「からいも畑」となりました。校庭の畑仕事だけでなく、2キロほど離れた丘陵地に学校が畑を借り麦を作っていました。4年生になるとそこの畑仕事にも駆り出されました。今の人には信じられないこととですが、10歳の子どもが小便を入れた肥え桶(こえたごと呼んでいた)を2人で担いで2キロほどの道のりを小便を全身に浴びながら運び、麦の肥やしに撒いたことを今もまざまざと記憶しております。

空襲がひどくなると、昼間学校にいても「警戒警報」が鳴りますと、急いで部落毎に整列し自宅へ向かって帰宅するのですが、4年生以上の上級生は下級生の一人と手をつないで遅れたりしないように責任をもって下校することになっていました。敗戦を迎えるまで何回その繰り返しであったか分かりません。時には、戦闘機グラマンがやってきたこともあります。また1回くらいしか記憶がありませんが、近くの高射砲に打ち落とされたグラマンの飛行士が捕虜になり、炭鉱にあった捕虜収容所に収容されたとの噂を聞いたことがあります。敗戦後聞いた話では、担当者が捕虜を虐待したとかで戦犯として連れて行かれたということでした。

国民学校3年生になると、実際には戦況が益々不利になっていたのに、我々の耳に入ってくるのは日本軍がどこそこで鬼畜米英の部隊をやっつけたというものでありました。その頃は、アメリカやイギリスは「鬼畜米英」と言われてそれは大変に恐ろしいものであると信じ込まされていました。勿論、英語は使用禁止で、パーマネントのような欧米から入って来たものはすべて敵に味方するものとして排除されたのです。いつの頃だったか記憶がはっきりしませんが、通りがかりの若い女性がパーマネントをかけていたのを見て友達何人かで「パーマネントのスズメの巣」と囃しながらその女性に石を投げたことをはっきりと記憶しています。一方的に教え込まれた教育の恐ろしさを思わずにはいられません。
 私は小さいながらも大きくなったら立派な兵隊になって自分も敵の兵隊をやっつけるんだと意気込んでいました。その時の希望は、国民学校を卒業したら幼年学校か少年航空隊に入って立派な兵隊になり、そして敵をやっつけるんだとしきりに思ったものです。当時の陸軍幼年学校にしても少年航空隊にしてもそう簡単には入れないものであったにもかかわらず、真剣に将来の希望を描いていました。

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