2007年10月の言葉 館長 藤原 亨
10月を迎えました。今年は9月末まで例年に無い暑い日が続きましたがいかがお過ごしでしょうか。
先般、福田新内閣が発足しましたが、なにかしっくりしないものを感じます。それは、夏の参議院選挙で大敗を喫したにもかかわらず、ただ「反省すべきは反省し」と口だけの反省に終わり、あれだけの大敗の原因が今の自民党政権を望んでいないという民意にあることを敢えて受け留めようとしないからにほかなりません。
小泉さんが郵政改革を声高に叫んで臨んだ総選挙で大勝したとはいえ、その後の安倍内閣では、矢継ぎ早に教育基本法の改正や国民投票法などの重要議案を衆議院の多数を楯に可決してしまいました。あの郵政改革選挙でそこまで委ねたとは考えられないのに強行採決をしたことなどが多くの国民のNOとなったのが先の参議院選挙の結果だったと思います。多くの国民は、一日も早い総選挙による出直しを望んでいると思います。
それまでの間、福田内閣が自分たちの保身に終始することなく、国民のための政治、片隅に追いやられている人々のことを親身になって考え、対策を講じる政治をしてほしいものです。
自分史を綴ることについて
5月の言葉で、次回から何回かに分けて自分史を記してみたいと予告いたしましたが、それは憲法改悪と教育改革を推し進めようとする現内閣の目指す所は、かつての軍国主義日本へと逆戻りするのではないかと危惧することと、私自身誰にも負けない軍国少年であった背景には当時の軍国教育があったという「教育の恐ろしさ」を身をもって経験しましたので、そのことを若い方々に少しでも知っていただいて今の状況を正しく判断していただきたいと願うからです。
伯母の家は、
戦後になって、彼らを今まで痛めつけた人たちの多くは報復を恐れて身を隠したと聞きました。敗戦直後に伯母の家に今までとは打って変わって丸々と太った中国人がやって来て時計や貴重品を要求しましたが、何にもないと分かると引き上げて行ったことが一回ならずあり、恐ろしかったことを記憶しております。敗戦まで鞭で叩かれていた骨と皮ばかりの彼らと戦後直ぐに丸々と太った彼らの姿は子ども心にしばらく焼きついて離れませんでした。
8月のある日の暑い昼頃、我が家から西の方の空に耳をつんざくような爆音がしたかと思うとくらげのような大きな雲が空に浮かび上がりました。それが長崎に原子爆弾が投下された日でありました。長崎市は我が家から有明海を隔てて直線にすれば50キロほどのところにある市で、初めは間近で異変が起きたことしか分りませんでした。2,3日してそれが原子爆弾であり多くの人命が犠牲になったことが分かりました。
それから数日して正午に、天皇陛下の直々の放送が行われるということでラジオのある所に集められ、放送を聴きましたが国民学校4年生の私には何を言っているのか意味が皆目分かりませんでした。ただ、今でも記憶しているのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」というくだりです。それが何を意味しているのか分りませんでしたが、日本が戦争に負けたことの国民への詔勅であったと分かった時の何とも言えない気持ちとこれからは空襲が無くなって助かったという安堵感を味わったことを覚えています。それと共にこの日を境に、今まで軍国教師として生徒を痛めつけていた数人の教師たちの態度が急変したことを鮮やかに覚えています。朝礼の時ちょっとでも動いたことが見つかれば、竹でお尻を叩かれたり、奉安殿と言って両天皇の写真が置かれている所を通る時、礼をしないのが見つかれば殴られたり、運動場を走らされたりと厳罰を受けていたのに、敗戦と共にそれらの教師の態度が一変したのが大変なショックでした。生徒たちにぺこぺこする姿を見て、子ども心に「人間は信じられない」という人間不信に陥り、それは潜在的にイエス・キリストとの出会いまで続きました。敗戦の日から空襲からは解放されましたが、今度は今まで以上の生きるか死ぬかの食料難が待ち受けていたのです。
私たちは実際には戦場には行きませんでしたが、戦争の悲惨さを様々な形で経験した我々世代がもっとそのことを戦争を知らない人たちに伝えて行くべき責任があると思っています。