2007年11月の言葉  館長 藤原 亨 

今年は、夏から10月半ばまで例年に無い暑い日が続いておりましたが、急に北海道らしい気候になり今では毎日暖房が必要になりました。皆様、ご壮健のことにてお過ごしのことと思います。 

昨秋、北海道では雪虫が出て一週間ほどしたら雪になると聴き、その頃公園に見に出かけたりしましたが全然出会うことが出来ずに残念に思っておりました。ところが、先週末に北大キャンパスの紅葉を観に出かけましたところ、たくさんの雪虫に出会い昨年来の念願を果たすことが出来てうれしく思っております。週間予報では、11月第一日曜日には雪がちらつくとのことですが・・・。 

今月半ばにセンター主催の「九州平和ツアー」で長崎と鹿児島の原爆と特攻隊にゆかりのある施設とキリシタンに係わる史跡を回ることになっております。

今回は、特に鹿児島・知覧の特攻基地跡にある「特攻平和記念館」を見たいという方の要望を聞いておりましたので、このようなツアーを企画いたしました。小泉純一郎元首相が総理になる前にこの施設を観て、涙を流したといわれている所です。ただ、私は鹿児島県の2教会で通算26年間働きましたので、その間何度かこの施設を観に行っておりますが、残念ながら展示内容などからしてどうも戦争讃美の方へ向いているように感じられました。多分、どなたもあの施設を観られたら涙を流さないではおられないと思いますが、一人ひとり流す涙の意味が違うのではないでしょうか。少なくとも小泉さんと私の流す涙は違うと考えております。戦争讃美の涙は絶対に流してほしくないと思います。今回参加される9名の方々がどのような涙を流されるのか後でお聞きしたいと思います。  (2007年11月1日)

自分史を綴ることについて

5月の言葉で、次回から何回かに分けて自分史を記してみたいと予告いたしましたが、それは憲法改悪と教育改革を推し進めようとする現内閣の目指す所は、かつての軍国主義日本へと逆戻りするのではないかと危惧することと、私自身誰にも負けない軍国少年であった背景には当時の軍国教育があったという「教育の恐ろしさ」を身をもって経験しましたので、そのことを若い方々に少しでも知っていただいて今の状況を正しく判断していただきたいと願うからです。

 正確なメモもなく記憶にあるところを記しますので、中には事実誤認や記憶違いなどもあるかも知れないことをお断りしておきます。(2007年6月1日記)

自分史 Y

国民学校4年生の夏、敗戦を機にわたしたちの生活は一変しました。といっても食料難はいっそうひどくなりましたが、戦争という脅威から開放され、軍国主義教育から民主教育に変わったのでした。戦後しばらくして戦地に行っていた兵隊さんたちが復員して帰宅し始めましたが、二人の兄(共に中国に応召していた)のうちの長男は間もなく復員して来ましたが、次兄は1948(S23)年3月まで帰って来ませんでした。それは、ソ連に抑留されていたからでした。その頃復員した人たちの中には、今までの価値観が180度変わったため「ぐれたり」、「荒れたり」した生活を送った人が多かったように思います。特に、特攻隊に志願した人ほど酷い状態であったように思います。そういう人を何人か見たように記憶しています。

私はと言えば、戦争がそのまま続いていれば、受かるか受からないは別として少年航空隊か幼年学校への夢を持ち続けて、そのために努力したのではないかと思います。今月12日から行われる当センター主催の「九州平和ツアー」でも鹿児島・知覧の「特攻記念館」をメインにしていますが、私は鹿児島在住時に同館へ足を運んで観に行きました。そしてその度に、20歳にも満たない少年たちや若者たちが「お国のため」という至上命令によって尊い命を散らして行く前に、両親や親しい者たちに書き残した手紙を読んでいて「もう少し戦争が続いていたら、自分ももしかするとこの人たちのように命を投げ捨てていたのかも知れない」という思いに駆られ、自然と涙がこぼれてくるのをどうすることも出来なかった経験をしたものです。それと共に、国民を戦争に巻き込みこのような多大な犠牲を強いた指導者たちへの怒りにも似た涙だであったことは間違いないと思っています。

戦後の日本は、民主主義の国に生まれ変わりました。戦後しばらくして、今まで終身で教わっていた「くにのあゆみ」という教科書が不適切ということで、殆どの箇所を墨で黒く塗りつぶす作業をしたことは、今も闡明に覚えています。今まで教わったことが否定されるということは、考えようによっては大変なことなのでありますが、私は今までの狂気の沙汰ともいうべき状況が無くなり、本当に自由に生きられる時代になったんだという実感を小さいながらも持ったように思います。

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