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Logos 今月の言葉

20133月  

当センターで39日(土)16時 記念集会が行われました。
東日本大震災からまだ2年しか経っていません。
 
テレヴィに写しだされた、大津波に襲われた陸前高田市、今日も依然として、そこに生活する人びとさえ見ることができません。ただ多くの「瓦礫」(瓦礫といいますか一人ひとりの生活物資・宝物ですね)が取り除かれ、街路に沿って新しいコンクリートの電柱が整列し、電線が張られていますが、その電線を引き込み生活を営む家屋がありません。
 一見すると、災害のあとが片づけられてさあ、いよいよ再建に取り掛かる直前のように更地がひろがっています。
 しかし奥地の物陰のようなところに瓦礫がうずたかくかさねられたままになっています。1500人が亡くなり、行方しれずの方々がまだ300人ちかくもいる。その街で、生き残った方々の日常生活にはあたりまえの気持ち、日常の生活を始めようにも政策として再建へのこころを、再建する方向へうながすよりも「帯に短し、襷に長し」の言葉のように人びとの心にゆき届かない。そのもどかしさを感じる。信頼を抱かせる施策ではなくてむしろ反対にますます信頼を失っている。バラバラな方策のように人びとには思われ、再建への思いが湧きあがらない。現地の人びとにとりましては拠り所のない不安と将来に対する気持ちを育てられないもどかしさが澱んでいることでしょう。
 さて、他方福島ではどうでしょうか。
 原子力発電所の破壊と原子炉自身のメルトダウンによる放射能によって日常生活した自分の住いは津波にながされるようなこともなくそのままです。いえ、そのままではなく、じつは日常生活を一瞬停止されたまま2年間放置され、そこは廃屋のようなありさまになっています。
 しかもいつ戻れるか、見通しのないままです。いいえ、見通しは、人々は見据え始めています。覚悟がうまれているようです。自分の生きている代では、そこに戻り、そこで生活を取り戻すことはできない状況である、ということのようです。放射線除去の働きはなされていてもそれでは「まだまだ」日常生活を再建する安全性を取り戻すことはできない。いつまで待つと再建に着手できるか。それは原子力発電所の解体後でしょう。
 しかし、日本の原子力発電に関する研究は、解体する方向に研究とその実績はないに等しいのです。ですから、解体するにあたってひとつひとつその方策、その試行を経てからにならざるをえません。
 かって60年前、日本は戦後の再建をいたしました。とくに都市部の壊滅的な破壊から再建しました。今回の壊滅的な地域は東北太平洋沿岸部の町と漁村です。日本人たちはまたどんな政策によるかはいろいろでしょうが再建をするに違いありません。
 しかし、福島、原子力発電所をめぐる状況は異なります。放射能によって汚染された状況は相当に長きにわたって手をつけることはできません。ましてや破壊された原子炉をどうやって廃棄するのでしょうか。どのくらい経てば可能でしょうか。故郷に戻ることがいつできるのでしょうか。
 チェルノブイリ原子炉の周辺はコンクリートで覆いをかけても、いまも立ち入り禁止です。

                                      雨貝行麿

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