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Logos 今月の言葉


2015年 6月 館長からのメッセージ
  
 

 

70年前6月、沖縄では地上戦のさなかでした。いつもの初夏がはじまりましたが「昭和20年」はちがいました。指呼の先、海にはびっしりと、今まで見たこともないほどの、しかもアメリカ軍の艦船が配置され取り囲まれていました。さとうきび畑が広がるなかの細い道をたよりにひとびとはなすすべもなく逃げまどい,艦砲射撃とアメリカの軍用車のひびきに身をちぢこませました。
 多くの人々は、初夏であるのに、全身をふるわせていました。まだ少年、少女の年頃の人々のおおくは戦場に臨んで、まさしく死に物狂いで課せられた任務の挺身していました。
 日本兵たちも戦場に臨んでも、戦うすべをほとんどなく、ただただ自分の命をまもることで精いっぱいでした。かれらもまた、もはや戦闘ではなく、いつ終わるともわからない狂気の混乱のなかに逃げまどっていました。
 日本軍の司令部は崩壊して、ひとびとは放置されました。3人に一人の割合といいますが全滅した家族もありました。
 日本軍は掃討されて、アメリカ軍が占領しました。かれらは駐留軍となりましたが、軍としての性格が変わったわけではありません。
 5年もたたずに、朝鮮戦争がはじまりました。小さな細長い島は、日夜軍用機の発着の騒音に悩まされました。その戦争に終息がなされたかとほっとしたのもつかの間、ヴェトナムで戦争がはじまりました。
 町は、戦争に行くアメリカの青年たち、戦争からもどったアメリカの青年たちでごったがえしました。突発的なできごとが多発しつづけました。思いがけないことが、思いがけないことであるのにまたか、またかと起り続けました。
 沖縄の人々は、待ちました。人としての当り前の、何事もない日々が必ず来ると信じていました。それは「本土復帰」でした。
 戦争が終結したのち、日本は「日本国憲法」を制定して「政府の行為によって再び戦争の惨禍の起ることのないようにすることを決意し」「平和を維持し,専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」としていました。まさしくこの「平和主義」をもつ「本土」、「日本になる」ことを願ったのでした。
 戦争中は「一億玉砕」といいましたが、戦争がなくなった、という安ど感のなかで「一億総ざんげ」しましたが、沖縄では、すべては終わったとしていたところでの「平和」と、戦争が終わったはずなのに日夜軍用機が低空をかすめ、戦塵をただよわせているアメリカの青年たちのすさんだ空気の漂うところでの「平和」への思いは全く別でしょう。沖縄の人々の平和へのおもいは、平和を決意した憲法への期待からようやくはじめられたのでしょう。「平和」への思いは、まったく「日常的に」熾烈なものです。
 沖縄の人から、今日学びたいことはこの思いです。



                                     雨貝行麿

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