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Logos 今月の言葉

2018年1月
現在北海道クリスチャンセンターの前身は「北海道基督教会館」でした。またその前身は戦争前に2階建ての「宣教師館」でした。戦前、まだ日本基督教団の成立に先立って北米長老派の宣教師が札幌の当時は「北星女学校」に派遣、赴任して活動していました。
 そこへ、新たに教会の活動を支援・協力する宣教師が派遣・赴任してきました。
当時札幌には長老派の教会は、いまの「日本キリスト教会北一条教会」とそれに連なる諸教会でした。そこで長老派派遣の宣教師たちは、日本キリスト教会に協力していました。
その宣教の働きを担っていたのがゴードン・チャプマン宣教師でした。道内各地の長老派の教会、いいかえれば改革派、日本キリスト教会の諸教会を支援・協力していました。まだ日本基督教団は設立されていませんでした。1940年日米が険悪になり排外主義がはじまると、宣教師たちは帰国をよぎなくされました。
日米戦争がはじまると、北米の日系人が強制移住させられました。多くの日系人たちが突然不当な扱いをうけて苦しんでいました。その人たちの生活支援のためにチャップマン牧師は働かれました。
 戦争が終わると、チャプマン牧師は再び宣教師たなって、北海道の地に派遣・赴任されました。日本基督教団ができていましたから、その宣教師として北海教区で働かれました。宣教師としての位置で、教区総会の議員としても教区の宣教活動を積極的に担われていました。
 一方、宣教師館には北海道大学、当時はまだ帝国大学が近いということもあって、英語を学ぼうとする青年学徒が集まってきました。チャプマン牧師はアメリカ駐留軍との交流をもちましたので駐留するアメリカ青年も宣教師館に出入りしていました。
 彼の周辺には、青年があつまりました。日本社会は当時軍国主義の桎梏から解放され、特に青年層がキリスト教の活動に集まってきていました。
 かれはプリンストン大学で学位をえた宣教師で、戦争中は日系人の苦労に寄り添い、戦後は再び北海道の諸教会とも連携を続ける働きをし、日本の教会、青年層の様子をみて、幻visionを見たのです。
 かれは、この青年たちに自由と、信徒としての一層の修練をすること、そのための用意を周到に整えること、キリスト教の図書、相談、交流の場をつくること、会館を造る。資金を調達しようしたのです。
戦後の荒廃した状況の中で、しかし材木の見通しはある。名寄の材木商、信仰をもって生きる信徒松浦修太郎氏である。物資調達にはかれの全面的な支援がある。
1951年10月竣工。3階建て。事務室、集会室、会議室、宿泊室、相談室、祈祷室、そして図書室。これらの施設において戦後30年間の社会情勢のなかで多彩な活動の場を提供、英会話教室、医科連盟、アカデミー活動、札幌地区キリスト教連合会、教区内の諸集会、宣教師たちの交流、福祉相談室等がなされました。今日その理念を改めて想起します。雨貝行麿