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Logos 今月の言葉

                         


                                  2020511日  ウイルスの終息がまだまだ見えない状況です。一層こころしていましょう。
当初は、各国が、その感染の広がりの現況に対して、応急的火急的な国境地域の閉鎖をするという対策を取りました。自分たちの身の回りをまもるという姿勢に終始しはじめたのです。
 しかし最近になると、さまざまな国際連携組織をもう一度、活き活きとさせて、国際連携をとり、ウイルス駆除のための人類の英知を結集しての取り組みをはじめる方向をとりはじめました。この取り組みがはじまりますと自国の利益を前面に出すのではなくて国際的連携を「積極的に」取り始めました。とくにヨーロッパは、ヨーロッパ連合を手掛かりとして手際が良いようです。
 また一般市民たちも、自分のウイルス罹患の恐怖におののいて、閉鎖的になり、自分の身を守るという保身的関心にむかっていた行動・関心、個人の心象から、互いに励ましあうこと、さらには治療に、真実、献身的に当たる医療・介護従事者たちに対する感謝と激励へと人々の心象風景はあきらかに変わり始めています。
 絶望的状況から、あきらかに光が差し込み始めています。悪いことは長くは続かない。
 聖書の中には、人類の歴史の中で経験されてきたもろもろの事柄が、それらがいつのまにか次の世代への警告として結晶のようになって形作られ、語りつがれてきました。
今回は、旧約聖書の中で「詩編」という書物に結晶して語り継がれてきたメッセージから聞き取りたいと存じます。  
 「旧約聖書」とわたしどもが言いますのは、本来はユダヤ教の言い伝えです。その言い伝えのなかでも「詩編」は人間が生きた、生き続けた英知(叡智)の結晶ともいえる内容です。
  イスラエルのひとびとは、その周辺には巨大なエネルギーを持って活動する異民族に囲まれた少数派でした。そこでイスラエルのひとびとは集まり、心を一つにして歌い、希望と励ましを培っていたのです。しかも長年にわたる緊張を続け自分たちだけではなく次の世代にわたってつなげていこうとしていたのです。
 詩編は本来「歌」でしたが、やがて歴史の中で歌い続ける声は消えてしまいました。メロディーは分からなくなりました。しかし、言葉は生き残りました。それが「詩編」です。
 以下その46篇です。
 神はわたしの避けどころ、わたしの砦
  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる
 (それゆえ)わたしは決して恐れない 
 ここで「詩編」の著者は、イスラエルの歴史に思いを馳せます。
 理念を語るのではありません。ここが大切です。著者が、自分の理想や考えを語るのではないのです。イスラエルの人々が経験した過去、忘れることも、無視することもできない出来事を活き活きと語るのです。
この46編が伝えられた背後には、次のような歴史があります。
かつてイスラエルの人々は、東の隣国アッシリアの王セナケリブによって包囲され、昼は戦慄に、夜は不安の中で慄いています。じりじりとその未来を蹂躙される毎日をすごしました。日常の生活をごく普通にできるようになるのは、いつ、いかなるときか。イスラエルのひとびとは、改めて自分たちが一つの民としての心を通わせてまとまり、小さなそれぞれの力を寄せ合って、自分たちをつなぎ合わせる神のもとに集いました。来る日も来る日も戦慄と不安の中で、自分たちが最も大切にすることがあることに気づき始めました。追い詰められ、貧しくなっていくなかで小さなものたち、力のない者たちが、無い力を寄せ合い、人として生きるに不可欠な真実の言葉で互いに真摯に生きることを学び取るのです。神こそわが力。
 やがてイスラエルを取り囲んでいた、アッシリアは、分裂と猜疑がはびこり、その勢力には、懈怠で空疎が広がりました。時間の経過とともに、分裂の猜疑が増幅されて、急速に力を失っていきました。包囲を固めていたと思っていたセナケリブは、終には心を通わせる味方のいない「裸の王様」になり、その権力から失墜しました。
イスラエルの人々は、大きく胸を広げて、空気をいっぱい吸い込みました。
神は「わたしの」砦。
  「砦」とは、誰もが顧みない、寄り付かない、貧しい者たちだけが守られる「高いところ」高貴なところです。イスラエルのひとびとは、小さく貧しくなって、人としての真実に気づき真摯に生きること、こうして、いのちを全うしました。
  この出来事を、歌い継ぎます。繰り返し繰り返し、「神は避けどころ、私の助け」(7編、16編など多数です)反響が広がっていきます。
  苦難の時、神は、そこにいまして必ず助けてくださる。だから、(3節、新共同訳ではこの「だから」が出ていません。協会訳と共同訳ではでています)わたしは決して恐れない、のです。
 この真理が忘れられ、不安と不確かな時代が訪れた頃、ルターとい若い司祭は、聖書の言葉をひとびとに回復しようとしました。詩編を新たに学ぶことをその働きの礎におき、希望という名の神の恵みの働きを、教会の礼拝で友人知人たちと讃美歌で表現し、高らかに歌いました。1520年代の終わり、まだ改革が始まって間もない、戦慄と不安を極めた時期です。彼はこの詩編46編をパラフレーズして2節「打ち勝つ力は、われらには無し」といいます。だからこそ「万軍の主、われらに代わって戦い給う」(われらとともに、は誤訳です。われらは無力と言っているのですから)。そして「静まれ、(自分の)力を捨てよ。しっかりと心を取り戻せ、わたしこそ神」(11節)。
  天地を創り、人類の歴史を導びき、いのちの恵みをあふれるように与え、希望を約束する万軍の主は、わたしどもと共におられ、われらの避けどころです。
 イスラエルのひとびとが経験した、神こそが助けだ、というメッセージは人類の歴史の中で鳴り響いています。

 絶望していると君はいう
 だが君は生きている
 絶望が終点ではないと
  君のいのちが知っているから  (谷川俊太郎)

 神こそわが力。与えられたいのち、その恵みに感謝して、新たな日に向かいましょう。  
                                      雨貝行麿