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センター主催「平和ツアー」を前にして。プラハ その1。
今回の「平和ツアー」ではポーランドのクラコフから夜行列車で朝プラハに着きます。東欧ではまだ鉄道の軌道がしっかりしていませんので高速で走行しません。「ゆっくり」です。プラハ中央駅に早朝到着です。出入り口は一か所でわかり易くキオスクもあります。
さて、プラハの街なかではチェコ語以外にドイツ語が聞こえます。若い人たちでは英語の学習がさかんになりだしています。1989年代の市民によるビロード革命以来20年、プラハの中心街バーツラフ広場には大きな書店ができて、ヨーロッパ文化の伝統ですね、立派に装丁された大版の書物が並んでいます。その中で語学ではチェコ語と英語の辞書、学習書が目立ちます。1980年代、共産党政権時代、学校ではロシア語必修、公的な(!)書店には赤い装丁のマルクス・エンゲルス全集が並べられていましたが誰もいませんでした。いまでは多彩なジャンルの書物が並べられ、パソコンで検索もしています。多くの市民が訪れて賑わっています。
チェコは地勢的には西スラヴ圏ですからロシア語に近いのです。「真理」は「プラウダ」ですからほぼ単語はラテンよりスラヴです。それだけに英語、仏語、独語、伊語とはかなり違い、むしろロシア語に近親性があります。名詞の格変化はラテン系より倍以上ですし単語が英、仏、独、伊語と語源が違います。それでもチェコの人々は英語を身につけようとしています。交流のみならずそれを身につけることに将来性があるからです。わたしはかって「チェコスロバキア」と言われた国家独立の指導者マサリクととくにそのご子息ヤン・マサリクを知りたいと思い壮年の男子書店員に尋ねました。「ない」とにべもなく断られ、はっとしました。ヤンは1947年共産主義者ではない閣僚として外務大臣をしていましたが執務室の窓の下で遺体で発見され、西側では「殺人」ではないか疑われ、この国では「タブー」でした。まだまだ過去が生きている。注意が要ります。
プラハは、20世紀の大規模な戦火をまともに受けませんでした。17世紀以来、反宗教改革によってカトリック、とくにイエズス会がヘゲモニー(支配権)を握り、学術・芸術文化を振興し、教会をバロックに改装しましたので街並みが美しいことがあって今日では世界の観光地になりました。近隣のロシア、ウクライナそしてドイツの人々が観光に訪れています。
2010年、ロータリークラブの例会を訪ねました。「プラハ・インターナショナル」と言います。すべて英語でほっとしました。そこに集う人々はオランダ、英国、カナダなどいろいろで、新たな事業を展開するためにプラハに来ている人々です。ここに商機が大いに期待されるからです。西側資本の導入です。両隣の席にはオランダとカナダからの方でした。オランダからの方はホテルを経営するためでした。もともとオランダは昔日本にまで商売をしにやってきて商館をたてた歴史を持っていますね。チェコでの事業は魅力に満ちています。カナダからの方は60年代チェコからカナダに亡命した方でした。カナダで事業に成功して故国で事業を展開する、これが夢です。チェコの人たちは亡命してもスメタナの「わが祖国」にあらわれていますように故国をとても大切にしています。向かいの席の女性はチェコの人でいま英語のアカデミーを立ち上げて多忙だということです。青年男女が英語で新たな世界にその知見をえるためでしょう。もう芽吹いています。(雨貝行麿)
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