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チェコのこと。−その2− 「平和ツァ−」にちなんで。
スラヴ民族のあいだで「崇敬」(カトリックでは聖人を「崇拝」するといわずに「崇敬」といいます。)されている聖人はニコラオス(?〜345/351)です。彼は現在ではトルコのミラと呼ばれる街で活動した方です。昔のことです。ニコラウスは、あるとき3人の娘たちを売りに出さねばならないことを人知れず知ったので、だれも知られずに金貨の袋を投げ入れて彼女たちを苦境から救い出したという伝説で語り継がれ、4世紀のことですから、キリストの福音を「人に知られずに人々を苦境から救い出す」働きとして知られたのでしょう。
ニコライ(ニコラウスから転化)といえば日本でも明治期キリスト教を知らせたロシア正教会伝道者でロシアから(スラヴ)先ず函館(箱館)にきた方です。その後お茶の水に東京復活大聖堂(ニコライ堂)を献げました。当時ロシア皇帝も「ニコライ」でした。
その「ニコライ」はチェコ語では「ミクラーシュ」となります。チェコ、プラハには旧市街に「ミクラーシュ教会」とマラー・ストラナ(小地区)に「ミクラーシュ大聖堂」があります。ここでは18世紀、プラハの市民に愛されたモーツアルトが演奏をしています。
さて旧市街の「ミクラーシュ教会」は今日フス派の教会です。白亜のバロックの建物です。フス派とは、ヤン・フス(1369〜1415)に由来します。彼はルターに先立つ100年前聖書の言葉は自由に語られねばなるまい、としました。カロル大学の学長として、また近くの「ベトレム礼拝堂」(いま再建され、「フスがここに住まう」と書かれていますし、何よりも特徴的なことは簡素な内部で中央に講壇、その正面壁に「神の戦士たち」の楽譜が大きく描かれています。このメロデイはスメタナ『わが祖国』に援用されているフス派の賛美歌です。)で多くの人々に福音をチェコ語で説き聞かせました。教会の腐敗を批判して二種陪餐(パンとぶどう酒)を主張しました。
1417年コンスタンズ公会議でヤン・フスの所説は弾劾され、彼は異端として火刑にされました。その後フスの支持者たちが大変な勢いで広がりますと、カトリックはこれに対して「十字軍」を起こし、戦乱となりました。フス派は、初めは強力でしたが内紛・分裂し1620年にカトリック軍によって打ち負かされ、フス派の人々は処刑され、追放され、その財産はカトリックに収奪されました。プラハはカトリックの牙城となりました。イエズス会よる支配です。カレル橋に傍らに建つクレメンテウム(神学校、図書館、礼拝堂の総合施設)はその象徴です。彼らは宗教のみならず学術・文化・教育を統制します。その結果、プラハの街は荒廃から回復し、マリア崇敬が振興し、バロックの芸術文化の華麗な展開がなされはじめました。その成果が今日にまで「黄金のプラハ・百塔の街」が睥睨することになったのです。
いま旧市街のミクラーシュ教会の広場には1915年、フス処刑の500年を、同時にチェコスロヴァキア建国を記念して、フスとチェコの改革者たちを記念する6段の階段のうえに大きな群像がおかれています。神学者の衣をまとい屹立するフス、その台座にチェコ語(古語)でフスが後継者たちに送った「真理を愛し、皆に望みなさい」の言葉が刻まれています。1918年チェコが、カトリックの守護者であったハプスブルク・オーストリアから独立するときの指導者トマシュ・マサリクは世界史的視野において、真理と正義は、フスに淵源を持つヒューマニズムと民主主義によって開花すると確信して民主的な憲法を制定しました。そこには既に少数民族の主権と女性の参政権がうたわれていました。(憲法記念日に)
(雨貝行麿)
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