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ポーランドはカトリックの国です。このカトリックは権力ではなくひとびとの心の糧、困難を生きる人々の心の糧です。かって人びとが自由を求めて「連帯」(ソリダリノスチ)をかかげました。ワルシャワの聖十字架教会を訪れたとき祭壇のわきに「連帯」の旗がかかげられ、そこに「平和」と書き添えられていました。ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920〜2005)が故国を訪ね共産主義という無神論の世界の中でそれに敵対するのではなく「平和を祈れ」と勧めました。謙虚で福音的でした。キリスト教の歴史の中で分かれたり、離れたり、敵対したひとびとを訪ね、和解の努力をされました。訪問は飛行機でしたのでその使節団運搬のためヴァチカンには大きな負担となりましたがその成果はそれに勝るものでした。「信仰の自由に関する宣言」「現代世界憲章」など彼はポーランド現代史のなかで辛酸をなめたひとでしたので世界平和のための働きをしました。2000年の聖年にはかってのイスラム侵攻の十字軍の所業、ガリレオの名誉回復など歴史の検証を指示したのです。未来をはぐくむおおきな成果です。
彼はロシアとドイツに挟まれ自分で選べない隣人を持たざるを得ない地勢のなかで青年時代を額に汗して働きました。23歳(1943年)で司祭をこころざしましたが神学校、大学は閉鎖されていましたので地下活動のもとで勉学しました。「ポーランドは滅びず」これが国歌ですが実は「国」は滅びても「ポーランドのひと」が滅びない。「わたしが滅びないからだ」と歌うのです。同時代日本は人の命を滅ぼして国家を滅ぶさない道を選んでいました。戦乱の中、労働者として生きた人がその人びとの日常を忘れずに「連帯」したのです。希望を与えました。カトリックもなかなかやるな!との思いです。
わたしは70年代終わりにドイツの大学チュービンゲンに研鑽していましたが、食堂(メンザといいます)でドイツのカトリック神学部の学生と出会いました。ちょうどその時(1978年)彼は「コンクラーベ」(教皇選挙のことで選挙人たちがヴァチカンの礼拝堂にとじこもって結論を出すまで外から「扉に鍵をかける」から来た言葉です)が終わり、ポーランド出身の方が教皇になった、といって歴史的な快挙であると顔をほころばし450年ぶりだといいました。「なぜか」すると彼はいままで長きにわたってイタリア出身に限られカトリックが逼塞して改革ができない、それでは今日の宣教の課題に目さえむけられず既得権を守ることになってきているとの評価でした。教皇おひとりの政策の重要性に期待していました。およそプロテスタントでは考えも及ばない世界的な期待を表現していました。
彼の期待にこたえるように新教皇は世界各地を訪問・祝福して「世界の宛てに至れ」とのイエスさまの言葉を実践し、平和と和解を告げ広めました。まもなくドイツの新聞に教皇は国家を超える!?と近代国家のあり方を壊すことに機能するとの懸念が少し書かれたことがあります。たしかに世界各地に生活するカトリック教徒たちは当該国家の方針よりもローマ教皇から出る教皇の語る言葉にむしろ忠実であるとの見方がひろがっているのです。
たしかにわたしどもはすべての点で最高の権力は国家にあるとの近代国家に生きています。国家の枠を抜け出ることをしない。しかし、そもそも宗教は、世界宗教としてのキリスト教は、実は国家を超えて、世界の連携のなかにあるのではないでしょうか。それが「公同の教会」ということですね。まもなく「平和ツアー」出発です。
(雨貝行麿)
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