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過日、福島県の南、原の町区の海岸に近い道路を走りました。運転手の方も震災後で初めて通る道路だとして行く手の道路とその周辺を見やって息をのんでいました。
震災から3年経ちましたが、海岸に沿った道路、海岸から500メートルほどの距離の土地、以前は畑か田んぼとおぼしきところには一面の瓦礫が突き刺さるように混じったまま、大小さまざまなかたちの異物があって手のつけようのない現状です。まだ赤さびた車の残骸が放置されたままになっています。そこは、まだ手つかず、震災の処理のために作業をするダンプトラックも、まだこの海岸地域一帯には入っていません。
初めは真新しいかった「仮設住宅」も「仮設」「応急」ではなくなりつつあります。あたかも「定住者」のようになりつつあるのです。しかも「仮設」のひとびとは、その仮設の方々の交流がなされていますが、そのすぐ隣にある、以前からそこに住んでいた人々とはスムーズな交流はできていない。
放射線量の高い地区、そここには住宅とそこに、数台の自転車がそのまま立てかけてあり、窓のカーテンは閉められたまま、玄関までの敷石は泥のつかないまま白く映え、庭に置かれた花鉢には花がこんもりと咲き乱れ、「今の今まで」生活していた、そこの人々だけが忽然と姿を消してしまったような村落のたたづまいが、そのままの状態で、あたたかな光を浴びて、そこここにあります。
ひとびとのさざめきの音がありません。生活の営まれていた、たたづまいはそのまま、そこにあって、ただ、ひとの姿、その生活と、生活が生みだすさまざまな、その音が無くなってしまっているのです。
東北地方の村落、農家の生活を営む人々にとりましては自分の農地、自分の家屋は自分の分身のようなものでしょう。農村のひとびとの生活は、いわばその身ひとつのものではありません。農地は、先祖から代々にわたって実際に土を養生して受け継がれてきたもの、家屋もまた代々にわたって父祖以来、そこで産湯をつかり、自分もそこで生まれ、育ち、手を加えられ、造られ、あたかも自分の「分身」のようになっているのでしょう。被災の日がまだ浅い時に、胸に位牌を抱きかかえ、また初盆になると、まだ瓦礫のかたずかないままの先祖代々の墓地に詣でるひとびとがいたことは記憶にあたらしい。ここに生きているのは、たくさんの見える紐帯のみならず、見えざる、代々にわたる紐帯をもって生きている人々です。これらは都会で生活を営む人々には想像することはなかなか困難な事柄です。
この地域の人々の生活が、そこで再建することにてまどっているのは放射線による汚染です。現在の人間の知識と技能では、ひとたび放射線によって汚染された事態をもとに戻すことの方法はありません。
これらの個人の力ではどうすることもできない、目の前の事態を長い間見まわしていると、ひとはその精神の安定をたもつのに危惧を覚えます。すでに多くのひとびとがこころをふさがれつづけています。
また一時的なショックから時間の経過とともにこころが傷ついていることがあちこちに顕在化し、気づきはじめています。災害は、建物や土地が受けただけではなく、ひとそのものが受けたのだということですね。
日本基督教団札幌地区の有志6名が同東北教区での連携ヴォアンテアからもどりました。
雨貝行麿
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