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Logos 今月の言葉


2014年 3月 館長からのメッセージ
  

アイススケートで金メダルを得た羽生結弦さんは、東北で被災した人々を力づけたいとの思いでご自分のエネルギーを注ぎだし優雅で力強いスケートの演技をした、という。自分が金メダルをとる、と言う思いにもはるかに勝って、苦しんでいる方々への思いを語る姿にこころせまりました。また均整をとれば理に適っているとはいえとても危険な、ラージヒルジャンプで銅賞を得た葛西紀明さんは、取り組むには万全ではなかった若い同僚たちを慮り最高のチームワークができたことをよろこんでいました。彼もまた同僚たちへの配慮をにじませていました。
 ともに若い世代の人々が、他への配慮を第一に語るすがたをみました。
 他方、彼らとは違った年配の人々が、ひとの地道な努力に思いをはせることのできないひと、他人を傷つけても自分の信ずるという行動をおくめんもなくとるひとがいます。こころしたいものです。
 最近、世代が、時代の風潮が、ひとの性格を造ることがあるようにいわれています。近くは2015年に「団塊の世代」を迎えるひとびとの特徴です。
 かれらは自分中心で自分は正しいと考えて、生活心情としてきました。他人の話しになかなか耳を傾けないで仕事に打ち込んできた。だから自分に自信がある。でも仕事中心で趣味を共有する友人がいないから引退後は孤独だといわれます。
 日本は、昭和の総力戦で明冶以来培ってきた国家の信用と資産を使い果たしたあと、日本の再建を担うとして力をそそいできました。「新日本」と言う言葉に励まされ、朝鮮半島で、ヴェトナムで戦争があってもアジアのなかで「民主主義と平和」が国是としてきました。

 しかし、戦後の平和のなかで自信をつけてきた世代は、戦後60年間の方針を変え、「教育基本法」を変え「憲法改正」をようとする世代がいま力をつけています。

 しかし間もなく世代は変わります。
 いま、新たな世代は、アジアや日本の社会や政治に関してはかっての世代とはことなりますが、身の回りに心配りができる世代が生まれてきています。他人に対して配慮することができるということは知性ではなくて「想像力」だといわれます。
 ひとが行動するとき、その行動を選択する判断の手がかりは「知性」ではなく「情念」「情熱」だというひともいます。かってドイツの哲学者I・カントは「判断力」としました。ひとつひとつの行為を判断する「理念」が仲介することが基本であるとしていました。「利害」ではなく倫理的にも妥当性をもつ「理念」によらなければならない、とする道徳性でしょうか。 その後、現代史は、ひとは「判断力」や「知性」をもちあわせても危機的状況のなかでそれらを発揮することができない局面をみてきました。むしろ「理念」でも妥当性のある普遍的な「道徳性」は、ひとが立ち向かわなければならない現実に対して有効、役に立たない。とすればひとは危機的状況においても絶望するしかないのでしょうか。
  若い世代が、自由に語る言葉のなかに、ひとを思いやる心の広がりを、いまわたしはとても感じました。力強さはないけれど、これからはここに希望があると。

 最近『ハンナ・アーレント』という映画上映されました。一部を紹介しましょう。

 ハンナ・アーレント、1906年ユダヤ系でドイツ生まれの哲学者で、マールブルク大学でハイデガーに学びましたがやがて身に迫るナチスの手から逃れてフランスに、しかしフランスもナチスに支配され、彼女自身「収容所」に収容されましたが脱出、アメリカに亡命し、戦後優れた哲学的著作『全体主義の起源』1951年『人間の条件』1953年等で期待されたのです。政治の季節がつづくなかで哲学的展望をしようとしたのです。
 1960年、ナチスの政策「ユダヤ人問題の最終的解決」のための実務を担当した中央治安局課長アイヒマンが逃亡先で拘束されてエルサレムで裁判が行われることになりました。「最終的解決」とは彼らを絶滅することでした。アイヒマンはその実務遂行の中心的人物でした。彼の裁判はエルサレムで行われることを知った彼女はその裁判を傍聴することとしました。かってナチスの戦争犯罪をニュンベルクで裁かれた時参加できなかったので今回は「過去に対する義務を果たす」ことを願ったのです。この裁判の報告を『ニューヨーカー』誌に掲載しました。彼女の真意をマルガレーテ・フォン・トロッタ監督が製作しました。(この項次回へ)


                                     雨貝行麿

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