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Logos 今月の言葉


2014年 6月 館長からのメッセージ
  

 キリスト教礼拝音楽学会の第14回大会が札幌北光教会礼拝堂を会場にして531日(土)開催されました。学会としては初めて札幌での開催となりました。そこでテーマも「北海道とキリスト教音楽」でした。
 主題講演と賛美歌伴奏に関する提言とシンポジウムが行われました。

 今月はその前半の内容に関してお話します。
 
 主題講演は、北海道新聞の文化部で仕事をしていた前川公美夫氏でした。
 「キリスト教音楽」といわれることは明治初期以来の音楽としますから、北海道では、初めに函館開港によって到来したペリー艦隊の軍楽隊、ついでロシア領事館におけるロシア人の活動があげられます。函館の街を賑わした「外国人」たちの動向が紹介され、その後は札幌を中心としたアメリカ人宣教師たちによる賛美歌が導入されたことを話されました。
 
 次いで西南学院の宗教局の安積道也氏が「礼拝のおけるオルガン奏楽の可能性」として奏楽者の心得とその実技を具体的にお話ししました。

 日本の諸教会の奏楽担当者の実情に鑑みて、「そこで、礼拝における奏楽をもって礼拝をいかに豊かな経験にするか」ということにむけた示唆に富んだ奨励でした。
 奏楽担当者は、前奏、後奏に心がいっぱいで、もっとも大切な賛美歌の伴奏のことに心が向いていないので今回いくつかお話しします、として以下のようなお話をされました。
 確かに前奏は大切です。この曲想で「今日」の礼拝が導かれるからです。また後奏は、礼拝が会衆にとって心からの喜びで満たされて、「新たな」生活の場に出てゆくからです。
 賛美歌の時には、奏楽者は、先ず賛美歌の言葉を何べんも読む。詩全体の内容を把握する。1節づつ声をあげて読む。全体においても、節のなかに前半と後半の内容が変化している場合がある。当然和音や音の高さに変化が求められていることを理解したい。
 また、言葉に応じて、倍音を替える、和音の幅を深くしたり、広くしたり工夫する。
 伴奏中、自分でも歌う、心の中で歌うと、会衆の息継ぎ(ブレス)が分かる。息継ぎが分かることが大切です。時には奏楽者は鍵盤から手を離してブレスさせ、自分もブレスすることが必要でしょう。
 これらの実際を、オルガン演奏で示されました。
 さて、大切なこと、心したいことは、まだまだあります。いまのところは、しかし、以上のようなことに努めてください、との提言でした。
 
 日本では、奏楽者になるための学習、修練の場はまだありません。教会でも奏楽者に対して「今日の礼拝に際して」奏楽者に要望、希望もでてきません。遠慮もあります。それだけに、奏楽者は「今日の礼拝の先導者」であることを自分に言い聞かせて、礼拝に臨んでください。 奏楽者の方には具体的なお話しでした。

 次に
4人の方々によるシンポジウムが行われました。
1. 雨貝 尚子(声楽家、北海道教育大学名誉教授)
2.
 真鍋 武弘(作曲家、札幌バプテスト教会ユースクワイア指揮者)
3. 日笠山 吉之(札幌ルーテル教会牧師・当学会員)
4. 植木 紀夫(桜美林大学教授・当学会員)これらは7月にお知らせいたします。
 司会は伊東 辰彦氏(国際基督教大学教授)でした。

 雨貝尚子は、札幌音楽家協議会会長というより日本キリスト教団北海教区札幌地区の教会音楽講習会や各種キリスト教会での賛美歌演奏会などを指導した経験から、北海道の日本キリスト教団の教会で用いられている讃美歌21に関して課題を提起しました。

1.よく知られている「神はわがやぐら」、1954年版(以下54年版)讃美歌267番と讃美歌  21(以下21)の377番です。これを具体的に講習参加者で歌い比べました。
  21377番が歌いにくいこと、それはまだ慣れていないから、だけではないことです。

1)
歌詞が言葉を入れ替えただけで全体が詩になっていない。
2)楽譜が歌い出す前に休止符がある。
3)小節線のない音型の曲に、無理に小節線をいれたために途中で3拍子になる部分がある。
4)終わりの音の長さが、短い4分音符であること。
 これらの音楽的、楽曲的な指示が『讃美歌21略解』に解説されていないままで、KJによるもっぱら歴史の記述であること。

2.ウエスレーの「ああ、主はわがため」54年版38番21298番の検討では、

1)3節の歌詞が54年版では「とがなき神の子、とがを負えば」ですが21298番では「主は人の罪をおいたまえば」になりました。大切な言葉は「とがなき神の子」が「とがを負う」ことでしょう。信仰の内容表現を平板にしています。
2)記譜法の問題としては、54年版では曲の終わりは符点2分音符と2分音符がタイで結ばれて5拍の長さです。21298番では2分音符のみで短い。この曲の初めがアウフタクトなので、曲の最後が短いと息継ぎの暇がなく、次の節に性急に歌うという指示になるので不適切です。

 今回は、歌い継がれてきた賛美歌に、このような仕方で手を加えられていることにいささか問題を感じています。
 会衆が賛美歌を歌うということは信仰の応答なのです。独りよがりの自己満足をさせることではないのです。会衆が礼拝において自分の言葉で応答するためには、母語(日本語)であることが大切です。
 確かに54年版讃美歌は8割が英米語を原曲としています。日本人の名前すらローマ字で表記されています。その後第2篇で工夫がなされました。
 プロテスタント宣教150年を経過して21を編纂するにむけて日本語による賛美歌の公募をして、日本語の賛美歌をもっともっと導入すべきでした。その際、日本語として優れた表現とそのことばにふさわしい作曲がなされてしかるべきでした。
 21の手直しされている言葉に未熟さが散見され、楽譜においては、歌としての表現方法に不見識さが多々みられます。
 そんな中ですが、良い作品もあります。2160番「どんなちいさいことりでも」は菅千代さん、仙台、尚絅女学院の幼児教育を担当された方、作曲は北海道大学在学中に札幌北光教会の日曜学校の子どもたちが歌う歌声を思い出して、この詩に作曲したとのことです。第3節の「よいこになれない わたしでも かみさまは 愛してくださるって イエスさまのおことば」。これこそ福音の真理を示し、しかもこの子どもの言葉づかいを抑揚のある美しい旋律にのせて、歌われています。
 日本の教会の礼拝で歌われる賛美歌、されに教会音楽が、日本の社会の矛盾のなかで生き、真実を求める人々に、新たに湧きあがる希望と勇気とを与え、いっそう文化的に深い影響を与えることができように願いもののひとりです。


                                     雨貝行麿

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